私にとってのトランスパーソナル心理学
人生の幸不幸を決めるのは、その人の人生に起きた出来事、それ自体ではない。人生の幸不幸を決めるものは、人生で起こるさまざまな出来事をその人がどのように受け止めるか、その出来事から何を学び、どんな気づきやメッセージを得ていくか、それ次第である。そして実際この人生で起こることにはどんな小さなことにも意味があり、それが私たちに大切なことを教えてくれているのである。それがたとえ私たちの悩みの種になっている人生の暗い出来事であっても、である。
これらの出来事が私たちに何を問いかけているか、何に気づくように促しているのか、そのことに気づき、新たな学びを得るならば、人生の逆境をよりよく、より豊かに生きるための好機へと転換できるのではないか。そう考えると、さまざまな問題や悩みの現れは私たちに何か、なくてはならない大切な気づきやメッセージを与えてくれる大切なファクターではないだろうか。人生とは私たちに次から次へと悩みや問題を課し、それらに私達がどう答えていくか、そこから私達は何に気づき、何を学べるのかを試されているようなのである。
しかし、上記のような考え方はよくあるポジティブ・シンキングではない。何をおいても前向きに生きるように励ましたり、小さなことにクヨクヨするなと叱咤激励したり、こうすれば心が軽くなる、といったストレス解消法とは全く異なることである。これらの励ましや心を軽くするための方法は一時の気休めにはなるだろうが、決してそれ以上のものではないことを私達は経験的に識っている。
ここで私が云いたいのは単純な肯定的思考なのではなく、むしろ逆向きの方法論であり、人間関係のもつれや病のようなさまざまな問題や悩みへと深く沈潜していき、そのような人生の暗黒の側に立って、その場から人生の光の側へメッセージを届けていくような思考回路である。それは言葉を換えれば、私達が普段そこに属している「人生の光の世界」から抜け出して、「人生の闇の側」に分け入り私達の悩みや問題の側に立ってみて、そこから生きるヒントを得ていこうとするのである。「心理学の第4の流れ」と云われるトランスパーソナル心理学の考え方をもとにして、どんな逆境にあってもそれを人生の好機に転化して、前向きに生きていくための方法論なのである。
トランスパーソナル心理学では勿論人間が人生を生きることの価値を認める。言わば「人生の主人公」となって生きることを大切にするのである。しかし、このような単なる「自己実現」にとどまらず、この人生に現れてくるさまざまな「呼びかけの声」にも耳を傾け、その声に従って生きていくことが必要不可欠なことである。その意味ではこれまでの心理学は言わば「自力の心理学」であったが、一方トランスパーソナル心理学には私達の意図を越えて姿を現してくるさまざまな呼びかけの声を大切にし招き入れることから「他力の心理学」という側面がある。したがって従来の心理学を含んで越えるという意味でトランスパーソナル心理学は「自力+他力の心理学」と云ってもいいのかも知れない。
トランスパーソナル心理学の説く「つながり」のもう一つの意味は、次のようなさまざまな「つながり」を生きるという意味でもある。それらは、自らの心や魂とのつながり、思想信条や性差・人種の違いなどを越えた人と人とのつながりであり、集団や社会とのつながりや、過去の世代や将来の世代とのつながりであり、あらゆる生きとし生けるものとのつながりであり、この母なる大地と大自然や地球生命圏とのつながりであり、そして私達を、その一部として含むこの宇宙そのものとのつながりなのであり、人間を越えた大いなるものとのつながりを指す。トランスパーソナル心理学では、自分へのこだわりを捨てて、こうした「つながり」に自分を開いて生きよ、と説くのである。それは何故なら現代人が抱える心の傷や魂の渇き、そしてその現れとしての空虚感は、このようなつながりを見失い、個人がバラバラになってしまったことから生まれてくるものだからである。
したがって現代人の歪んだ生きかたを根本から変えることは、この「個を越えたつながり」の回復によってしかなし遂げられない、とトランスパーソナル心理学は答えているようである。
では具体的にはどうすればいいのか? それは自分や自分の幸福について思い煩うのをやめる。そして「この人生で自分が果たすべき何か」についてただひたすら取り組んでいく。そんな生きかたをしていれば、自分はこの人生でなすべき時になすべき所で、なすべきことをしている、という「生きる意味の感覚」が満ちあふれてきて、その結果真の幸福、真の自己実現もおのずと手に入れることになるのではないだろうか。ここで注意しなければならないのは、このつながりがある種の宗教教団のような閉鎖的・排他的な集団であってはならない。それは「開かれたつながり」でなくてはならない。またこのつながりはある種の全体主義的な個を殺すようなつながりであってもならない。あくまで個が生きるつながりでなければならないのである。
私達は普通人生を「自分のしたいこと」をしていく場だと考えている。分の夢を実現する。希望や願望を実現し、目標を達成していく。
そのようなところだと考えている。勿論自分のしたいこと、やりたいことを実現していくことはそれ自体悪いことではない。しかし、幸福になりたい、という人間の欲望には際限がない、ある地位を手に入れたらもっと高い地位がほしくなる。ある程度有名になれたらもっと名声を、と思うものである。これこそが世の常で、だから幸福になりたいという欲望に駆り立てられた人間はどこまでいっても心の底から満たされることがないのである。絶えず何か足りない、どこか満たされない、という欠乏感を抱き、永遠に不満の状態に陥ってしまうのである。
フランクルは、人生のこのような罠から人々を解き放とうとする。そして、そのために人生への基本的な構え、人生哲学を180度変えるように主張するのである。つまり、「私のしたいこと、やりたいことをするのが人生だ」という人生観から「私のなすべきこと、私がこの世に生まれてきたことの、意味と使命とを実現していくのが人生だ」という人生観へと転換することである。このような生きかたの転換が、欲望の虜となり永遠の不満の状態に苛立って生きる状況から脱けだして、「私はなすべき時になすべきところでなすべきことをしている」という深い「生きる意味」の感覚に満たされて生きることが出来るようになるのだとフランクルは主張するのである。そしてそのために、フランクル心理学では従来の心理学の問いを逆さにする。すなわち「私がほんとうにしたいことは何だろう」「私の人生の目標はなんだろう。どんな希望や願望を実現したいのだろう」といったものを、フランクルは「私はこの人生で何をすることを求められているのだろう」「私のことをほんとうに必要としてくれる人は誰だろう。その人はどこにいるのだろう」「その誰かや何かのために、私に出来ることは何があるだろう」というように、絶えずこのような自問をしながら生きていくことをフランクル心理学では主張しているのである。病気や人間関係のトラブル、リストラによる失職、子どもの不登校や家庭内暴力。こうしたことが起こるからには、何かそこに「意味」があるはずだ。これらの出来事を通じて人生が私に何かを問いかけてきているはずだし、これらの出来事を通じ、人生は私に何かに気づかせ、何かを学ばせようとしているのだろう。これがフランクル心理学と、それを含むトランスパーソナルの基盤となる考え方なのである。
どこまでも続くこの果てしない宇宙、なのに「今、この時代、この時、この地球、この国の、この場所」に何故か、この私が置かれている。「他のいつでもどこでもない今、ここ」にこうして私が与え置かれているということには、やはり意味がある。自分が選び取ったのではなく、気づいた時には既にここにいたからこそ、このことだけにはただそれだけで意味があると思わずにいられないのである。私達一人一人はこの果てしない大宇宙の中で、その「なすべきこと」「満たすべき意味」とともにいま、ここに定め置かれている。どんな人にもその人が生涯で果たねばならないその独自の「使命と役割」を実現するための特定の時間と場所とを与えられているのである。
トランスパーソナル心理学は、その創始者であるマズローもそれを「宇宙に中心を置く心理学」と云っていたほどのもので、この「宇宙の中の自分」という感覚、さらには「宇宙とこの私は一つである」という感覚を大切にする。そして、同じ宇宙から生み出されたものとして、「この地球や生態系や、人類とも一つである」という感覚、この宇宙の万物とのつながりの感覚が非常に大切なのだと云う。
トランスパーソナル心理学が進化したものとしてミンデルが創設したプロセス指向心理学(Process-Oriented Psychology)の視点から見ると「心も問題は社会の問題、この世界の問題とは分かち難くつながり合っている」と考え、人種問題、環境破壊、ホームレスやエイズ患者の扱いの問題などにも取り組んでいる。さらに、人間関係のもつれやアルコールやタバコなどの依存症、知らず知らずのうちにおこなっているクセや動作などもすべて、私達の心の深い層と繋がっていると考え「人生における気づきを高める、総合的なアート」が必要と考え、「気づき」得るための、ありとあらゆる手がかりとなる開かれた総合的アプローチの方法論を考えついた。それは聴覚、視覚、身体感覚、動作、身体症状、人間関係、世界との関わり、一見偶然起こった出来事など、あらゆる媒体に開かれ、あらゆる角度からそこで起こっていることを捉えていくのである。要するに「気づき」を高めるために使えるものなら何でも使うのである。つまり、こうしたい、こう生きたいという希望や願望を越えて、そうしたこちら側の思惑とは無関係に、それを越えて向こうから「人生の波」や「流れ」や「うねり」や「うずまき」のような力がやってくる。そしてその力によって、ある方向に導かれていく、ということが人生にはあると考えるのである。
自分がなぜこのような人生を生きているのか。なぜこのような生活を送っているのか、誰と出会い、誰と出会わなかったのか、このようなことを考えるとそこに自分の意思を越えた何かの力、さまざまな偶然や出会い等々を認めざるを得ない。それらが幾重にも重なって私達の人生はつくられていくのである。視点を換えればどの両親のもとに生まれたのかさえ、自分の魂が何かの力に選ばれて自分の両親やDNAを選んだのだ、とも云えるのである。
この人生には人為を越えた大きな力、目に見えない「うねり」や「波」や「流れ」「うずまき」のような力が働いているのではないか。これらが「人生の大きな流れ=プロセス」のことを云っているのではないか。そしてこの「人生の流れ=プロセス」は私達に必要なものはすべて運んできてくれるはずだからそれがいま、何を運んできてくれているのかそのことに気づけ、自覚的に生きていけ、と云っているかのごとくに感じられるのではないか。「人生の流れ=プロセス」は、まず目には見えない仕方で私達に何かを運んでくる。そしてこの目に見えない「うねり」や「波」「流れ」は、次第に目に見える形をとってくる。その形となったのが人との出会いやイメージや夢や病や身体症状でもある。したがって、こうしたさまざまな媒体を通してそこで起きていることに従い、人生の流れに注意を向けて一瞬一瞬を楽しんでいれば、そのプロセスの中から何かとても大事な、気づく必要のある貴重なメッセージに気づくことができるのではないだろうか。病気や身体の症状は、人間関係の問題と並ぶ人生最大の問題である。もし一生病気にならずに済むならどんなにすばらしいだろうと考える人の数は少なくないだろう。病気や身体の症状は私達の人生から根治してしまいたい、人生にとっては大きな邪魔者だし、この点では西欧医学においても東洋医学においても発想は同じだろう。いずれも病や痛みを取り去ろうとするのであり、病やその症状は人生の邪魔者でありやっかいな敵と見なしているのである。しかしトランスパーソナル心理学においてはこのようには考えない。勿論病気を無理に呼び込む必要はないが、少なくとも次のようには考える。つまり、病気やその症状は、私達に何か大切な人生のメッセージを送り届けてきてくれているのであり、それは大切に敬うべきだ。病気の「言い分」に耳を傾けるべきだ。そして病気やその症状の言い分に従っていこうという姿勢なのである。つまりは病気やその症状は、そうにでもならなければ気づけずにいた「大切な何か」に気づくように私達を促してくれる有り難い贈り物なのである。だから病気やその症状を敵や邪魔者と見なすのではなく、それらは私達が認めたくない私達の一部である。だから病気やその症状の立場に立ち、それらになりきって、そこからメッセージをもらおうとすることが大切なのである。そして結局、病気やその症状の言い分に耳を傾けることは私達自身の生きかたの変更につながるばかりか予防医学的な効用も出てくるのである。
また夢は病やその症状を映す鏡であり、その逆も真なりで病やその症状も夢を映す鏡である。ユング心理学でいうシンクロニシティ(意味ある偶然に一致)という関係が夢と病やその症状の間には必ず成立していると云われているのである。
また、やめたいけれどやめられない病(Addiction)に苦しんでいる人もたくさんおり、病気やその症状と同様に人生の敵扱いされる。しかしトランスパーソナル心理学では、これらはそこから大切な気づきや学びを得られる大切なもの、人生の大切なメッセージを送り届けてくれるものと考える。アルコールやタバコ、買い物やパチンコなど私達の執着の対象も病気やその症状、と同じように私達がじゅうぶんに生きてこなかった私達自身の一部、私達の影の部分であり、そこから何か気づく必要のある大切なメッセージを得ていこうとするのである。
末期患者との関わりの中で死にゆく人の心の問題を徹底して聴いていったキューブラー・ロスは『死ぬ瞬間』の中で、末期患者がその終末期体験する心のプロセスを・否認と孤立・怒り・取り引き・抑鬱・受容の5つの段階にまとめている。ロスが達した結論は「死は怖くない。死は人生で最もすばらしい経験にもなり得る。そうなるかどうかはその人がどう生きたかにかかっている」というものである。
しかし、ロスの関心は次第に「死のプロセス」から「死後の生」及びそこへの「移行」つまり「ある存在状態から別の存在状態への移行」としての死の問題へと移っていくのである。死後の世界などまったく信じていなかったロスが、このような問題に関心を持つに至ったのは臨死体験の共通性について知ったことが大きかったようである。最初は死後の世界など信じていなかったロスは臨死体験の多くの結果を分析することによって次のように考えるようになった。「(従来の意味での)死は、存在しない」すなわち「死はこの形のいのちから、痛みも悩みもない別の形のいのちへの移行に過ぎない」という結論に達することになる。またロスは多くの面接データをもとに、死亡を宣告された後、
人が体験する段階を次の4期にまとめている。
(第1期)
肉体から脱け出し空中に浮かび上がる。所謂体外離脱状態の段階。
自分に何が起こっているか明晰に理解し、その場にいる人たちの会話を聴いたりすることが出来る。
(第2期)
肉体を置き去りにし、スピリットとかエネルギーとしか言いようのない、存在の別の次元に入っていく段階。どんな場所でどんな死に方をしようと、どこにでも移動することができる。ロスがインタビューした臨死体験からの生還者全員がこの段階で守護天使、ガイド(子どもの場合、遊び友達)と出会い、彼らは包むような愛で慰めてくれ、先立った両親や祖父母、親戚、友人などの姿を見せてくれる、という。
(第3期)
トンネルや門、橋、山の小道、きれいな川などを通って、最後にまぶしい光を目撃する段階。その強烈な光はエネルギーであり、無条件の愛であることを体験する。興奮がおさまり安らぎと静けさが訪れる。ついに故郷に帰っていくのだという期待が高まってくる。誰一人として肉体に帰りたいと望まなかった、という。
(第4期)
「至上の本源」を面前にした段階。それまでまとっていたエーテル状の微細なからださえ必要としなくなり、スピリチャルなエネルギーそのものに変化する。つまり人がこの世に生まれてくる前と同じエネルギーそのものに還っていき、存在の完全性を確認する。あらゆる人のいのちがつながり合い、すべての人の思考や行動が地球上の全生物にさざ波のように影響を及ぼしているさまを、まざまざと見せられる。
現実には臨死体験は死後の世界をかいま見た体験であり、したがってそれは霊や魂、死後の世界の実在を証明するものであるという「死後の世界=霊魂実在説」をとるか、あるいはそれは幻覚であり妄想であるとする「脳内現象説」をとるか二派に分かれての活発な議論の最中であるようだ。とは云えいまのところ圧倒的に人気が高いのは「死後の世界=霊魂実在説」の方である。
ではトランスパーソナル心理学ではこのような問題をどう捉えているのかというと、「死後の世界説」も「脳内現象説」もとらないのである。トランスパーソナル心理学ではこのいずれでもない第3の考えをとる。すなわち臨死体験を「ある特定の意識状態におけるリアルな現実」と見なすのである。トランスパーソナル心理学の基本的な方法論は現象学である。現象学では私達の意識と無関係に実在する「客観的現実」というものの見方そのものを背理として退ける。私達の知る現実はすべて「意識された現実」であり、私達の体験する世界は全て「体験された世界」であって、私達と無関係に存在する客観的現実とか客観的世界などというものはあり得ない。そのようなものの見方自体が、既に誤りを含んでいると考えるのである。そしてすべての事物は私達の意識の内側で意味を獲得していく。事物や世界が「存在する」とは実はそれらが私たちの意識において内在化されているということなのである。これが現象学的還元という考え方の基本である。したがって「あの世=霊魂の客観的実在」か「単なる妄想か」という問いの立て方そのものが不毛なのである。意識というものの本性上、私達は「意識の外」へは一歩も出ることは出来ないので、当然「あの世」や「死後の世界」「生まれ変わり」の客観的実在について確かめることは原理的に不可能なのである。現象学のフィルターを通せば臨死体験についての問いの立て方は次のようになるはずである。すなわち「霊魂の実在か妄想か」という問いから「臨死体験におけるさまざまな現象が私達にとって、本質的な意味とは何か」という問いへと変換されるだろう。そうすれば、臨死体験をはじめとする種々の特異な体験は通常の日常意識とは異なった「ある特別な意識状態における現実の体験」であると云うことが出来るのではないだろうか。言葉を換えて云えば、いかに特殊な体験であれ、無意味な幻覚や妄想などと切り捨てるのではなく、「それが起こるからにはその体験には何か大切な意味が込められているはずだ。だからこそそれを明らかにしていこう」というように、事象そのものに語らしめるのが現象学的態度なのである。
[簡単なまとめ]
本来カウンセリングの目的は、相手の「自立」を促すことにある。新たに問題や悩みが生じてもその問題や悩みに自分で対処できる人間になってもらうことを目指すのである。そしてそのためには、自分のトラウマの物語があくまで主観的な物語でしかないこと、自分で自分を理解するために編み出した「意味付け」であり「解釈」でしかないことをクライアントに分かってもらう必要がある。つまりトラウマの物語は絶対的真実ではなく、いずれ別の物語に網み換え可能なものであることを理解してもらう必要がある。






